物語 『元の世界では』

第二篇 石油の砂時計

一九四一年十一月二十日 深夜 首相官邸地下 最高統帥会議
真珠湾まで、あと十八日

二度目は、驚かなかった。光が引いていくのを、彼は足元から順に見ていた。手のひらから明るさが抜け、鞄の革がただの革に戻る。匂いが変わる。珈琲と葉巻ではなく、煙草の脂と、湿った紙と、油紙。

椅子が倒れた。書類が舞った。扉の内側に立っていた憲兵が拳銃嚢に手をかけ、そのまま動かなくなった。抜くべきかどうかを決める規則が、この国のどの服務規程にも書いていなかったからだ。十四人が彼を見ていた。年老いた提督が立ち上がり、深く頭を垂れた。

「軍神の御来臨と拝察いたします」

ああ、と彼は思った。この国は、こう受け取るのか。

四年前、彼にとっての四年前、この世界には無い四年前のワシントンの閣議室では、一人が跪いて祈り、一人が換気しろと叫んだ。信仰と科学が、同じ光を二通りに受け取った。

ここでは割れ方が違う。頭を垂れた提督の隣で、軍服の男が拳銃嚢に手をかけたまま言った。

「妖術です。海軍が仕組んだ幻術でしょう。この夜に、この部屋で。都合がよすぎる」

受け入れるか疑うか、ではなかった。この光が誰のものかを、二つの軍が奪い合いはじめていた。

右のポケットが鳴った。


彼は電話を出した。今度は手が震えなかった。

ATLAS あなたの決断により世界は変わる。持っていきたいモノを選べ。あとは好きにしたまえ。

一覧が出た。

 精鋭戦艦戦隊       選択可能  戦時経済         選択可能  年代戦役記録       解禁済  最強機動艦隊       条件を満たしておりません  ……  提督の記録室   クリア回数   一   クリア国数   一  ――――――――――――――――  次の舞台   現代艦隊        条件を満たしておりません

彼は一つ目の行を開いた。

精鋭戦艦二から三隻、重巡と駆逐の護衛。総数およそ八。次に始めるとき、この編成を持ち込める。

二度読んで、選ばなかった。理由は単純だ。どこから来た艦だと訊かれて、答えられない。光とともに人が一人降りるのは、この部屋の十四人が見ている。だが八隻の艦が湾に浮いているのを、どう説明する。見た者のいない奇跡は、奇跡ではなく疑いになる。

二つ目を選んだ。

 戦時経済 開始時の資源に上乗せ。

備蓄が少し多い。それだけだ。誰も気づかない。誰も説明を求めない。説明しなくていいものが、いちばん強い。彼はそう思い、それから、自分が「次」を前提に考えていることに気づいた。

電話をしまって、顔を上げた。十四人が、見えないものを触っていた男を黙って見守っていた。

「総理は、どちらに」

「こちらに」

「お名前を、うかがっても」

白髪の文官が、戸惑いながら答えた。

「有馬でございます。有馬康夫」

彼はうなずいた。知らない名前だった。それでよかった。確かめることは済んだ。過去ではない。よく似た、別の世界だ。自分の知っていることは、ここでは仮説として立っている。二度目の彼は、それを最初の三十秒で確かめる術を覚えていた。

「十八日後の朝、この国は米国と戦争を始めます」


信じさせるのに一分もかからなかった。上の者たちは疑わなかった。目の前で光が降りるのを十四人が同時に見た。それで足りた。その夜のうちに、彼はこの国の決め事のほとんどに触れられる立場になった。

問題は、この部屋の外だった。ワシントンでは、それでも通った。あの国の軍は、命令が上から下へ流れる軍だった。ここは違う。彼はそれを、十八日のあいだに身体で知ることになる。


三つの問いが出された。陸、海、国家の順である。

陸。参謀総長の堀内が、卓の上で指を組んだ。

「関特演で北辺に張り付けた師団は、まだ動かせん。独ソの帰趨も見えん。南方作戦の最中に北の国境を突かれたら、南と北、どちらを捨てる」

「北は来ません。少なくとも来年いっぱいは」

「根拠を」

「向こうは西で手一杯です。極東の師団を西へ抜きはじめている。抜いた分は戻ってきません」

「なぜ知っている」

「知っています。元の世界では」

堀内はその言い方に眉を寄せた。それから初めて椅子に座った。座ることで議論を続ける、という合図だった。

海。軍令部総長の橋口が、海図の北の余白を指の背で軽く叩いた。さきほど頭を垂れた老提督である。

「機動部隊は単冠湾に集まっております。六日後に出ます。出れば無線封止に入る。止めるとしたら、今夜が最後です」

彼はその一言に打たれた。成るか、ではなく、止めますか、とこの老人は訊いている。降りてきたばかりの、名前も知らない男に。

そのとき初めて、自分がどこに立っているかを分かった。あの朝、あそこにいたのは自分だ。北東の海に空母を置き、哨戒の扇を北へ広げ、防空を戦時にした。その罠へ入ってきた六隻の空母が、来たときの姿では帰れなくなった。その六隻が、いま択捉の湾に集まっている。同じ艦ではない。別の世界の、よく似た別の六隻だ。それでも彼は、湾の名前を聞いただけで喉の奥が詰まった。

「止めます」

部屋が静まり返った。

「南方の資源地帯だけを取ります。蘭印と、英領。米国の領土には指一本触れない」

「米国はそれで黙っておりますか」

「黙りません」と彼は言った。「ですが、撃たれていない国が宣戦するには手続きが要ります。撃たれた国には要りません」

橋口は長いあいだ彼を見ていた。それから言った。

「顧問。それは、この国でいちばん嫌われる種類の正しさです」

「存じております」

「ご存じの上でおっしゃるなら」老提督は目を伏せた。「私は従います」

国家。企画院総裁の森下は、最初から一度も驚いていなかった。書類をめくる手を止めずに言った。

「開戦の朝から徴用船は沈みはじめます。船腹の損耗と新造の収支は合いますか」

「合いません」

「何年目で破綻します」

「三年目の夏に、南方から本土へ運べる量が、本土が要る量を下回ります」

「合わぬなら、何年目までに、何で折り合いをつけますか」

「二年目までに、講和の形を作ることです」

「勝ってからでは」

「勝ってからでは、遅い」

森下が初めて顔を上げた。

その夜、彼が味方にできたのは、結局この男ひとりだった。


決断はその夜のうちに全部下された。そして取り消せなかった。

十八日が残った。考える時間ではない。結果を見る時間である。

ワシントンで、彼はこの十八日を一度経験していた。あのときは罠を仕掛けて待つ十八日だった。今度は違う。

今度は、何もしないことを、十八日かけて守り抜く十八日だった。

十一月二十六日、米国から覚書が届いた。中国と仏印からの撤退要求である。

外務当局はこれを最後通牒と受け取った。参謀本部は色めき立ち、やはり交渉に意味はなかったと言った。

彼はこの紙を、四年前に見ていた。送られる前日の草案として。

ワシントンの部屋で、彼はそれを止められた。止めなかった。止めれば十八日の罠が壊れるからだった。

その紙が、いまこちらの卓の上にある。

「顧問。いかがなさる」

彼は紙の縁を指でなぞった。譲っても拒まれる。譲らなくても、同じ日に同じ紙が来る。どちらを選んでも、この紙は十一月二十六日に来るのだ。彼に変えられるのは、この紙が届いたときに自分たちがどこにいるか、それだけだった。

「南方だけを取ります。方針は変えません」


十二月八日。コタバルに上陸が始まった。真珠湾には、何も起きなかった。

その朝、彼は官邸地下の同じ部屋にいた。誰も彼を見ていなかった。全員が電文を見ていた。南方の各方面から報告が入り、蘭印の油田地帯へ向かう部隊の位置が海図の上を進んでいく。

正午前に、別の電報が来た。

第○潜水戦隊司令、独断ニテ布哇方面ヘ向カフ。

彼はその一行を三度読んだ。止めた。反転させた。命令は下り、受理され、確認された。それでも一部の指揮官は、自分の判断で東へ向かっていた。

橋口が彼のところへ来た。老提督の顔は、この二週間で十歳老けて見えた。

「顧問。申し上げにくいことですが」

「はい」

「あなたの命令は、弱腰と受け取られました」

「……」

「上はあなたを見ております。見た者は疑いません。ですが見ておらぬ者にとって、あなたの命令はただの臆病な命令です。撤退、自重、回避。そういう命令ほど、この軍は従いません。三十年、そうやってきた軍です」

彼はそのとき、自分の持っている武器の形を知った。ワシントンでは命令は流れた。ここでは詰まる。同じ知識、同じ光、同じ十八日。それでも国が違えば、正しさの通り方が違う。

そして、いちばん悪いことに気づいた。破滅を知っているから打つ慎重な手ほど、この軍は従わない。知識が正しいことが、抵抗を生む。

その日の夕方までに、独断で向かった部隊は連れ戻された。連れ戻すために、橋口は自分の四十年の顔を全部使った。真珠湾は撃たれなかった。彼はその夜、初めて、この国で勝てるかどうかを疑った。


つながり方は、こちらでも細かった。彼は最初の月に、電探の設計をあらためて向こうに確かめた。返事は三日かかった。中身は、四年前にワシントンで受け取ったものとほとんど同じだった。

だがこちらでは、同じようにはいかない。真空管の歩留まりが違う。同じ規格で作ったはずの部品が、工場ごとに違う値を出す。被覆の材料が足りない。整備の兵に直し方を教える教科書が無い。

「作れます」と技師は言った。「ただし、月に十でよろしければ」

彼はそこで、この戦争の本当の形を知った。足りないのは知識ではない。知識を物に変える速さだ。だから彼は四つのことをした。四つだけである。

一つ。暗号は破られていると告げた。誰がどこで破っているかは言えなかった。だから、破られていると仮定して回してください、仮定して辻褄が合うなら破られています、とだけ言った。三か月後、参謀本部の一室が青くなった。

二つ。電探を、いま作れる形に落とした。半導体は無い。真空管でやるしかない。彼が持っていたのは設計ではなく、何を諦めればいま作れるか、という順番だった。距離が出ればいい。方位は粗くていい。夜に使えればいい。一年半で、艦に載る大きさになった。

三つ。大慶の位置を告げた。満洲の雪の下。掘れば油が出る。深く掘れ、と。届かないと言われた。届かないなら届く機械を買ってください、まだ買える国が一つあります、と答えた。南方より遅い。それでも、いつかは自分の油になる。

四つ。船団を組み直させた。速い船と遅い船を混ぜない。護衛は船団の前ではなく、後ろと横に置く。潜水艦は前からは来ない。追い越して、待ち伏せる。

これは技術ではなく海の性質の話で、歴史がどれだけずれても変わらない。四つ目がいちばん効いた。そして四つ目がいちばん嫌われた。

「顧問は勝つ話を一度もなさらん」と、若い参謀が言った。

彼は答えなかった。答えれば、また一つ電報が増える。


一九四三年の春、通信諜報の技術士官が彼を訪ねてきた。

「顧問。妙な報告が上がっております」

「どうぞ」

「米軍の対空砲が、当たりすぎます」

彼は顔を上げなかった。上げられなかった。

「当たりすぎる、とは」

「弾が、当たらずとも炸ぜております。近くを通っただけで。そのような信管は、まだどこの国も実用にしておりません」

彼は机の上の湯呑みを見ていた。近接信管。そういう信管があり得ることを、彼は知っていた。原理も、真空管でやる場合の要点も、頭に入っている。この世界の誰にも、まだ渡していないものだ。

若い士官は続けた。

「それと、私の思い違いかもしれませんが。解読の断片に、意味の取れぬ言葉が混じっておりまして」

紙片を出された。

彼はその言葉を知っていた。この時代には、まだ無い言葉だった。

「思い違いでしょう」と彼は言った。そう言うしかなかった。

士官が帰ったあと、彼は長いあいだ動かなかった。

向こうにも、降りたのだ。

そして、その次に来た考えのほうが重かった。

呼んだのは自分だ。

静かに戦えば遅れる。派手に戦えば早まる。彼はこの世界で、できるかぎり静かに戦ったつもりでいた。真珠湾を撃たず、決戦を避け、船団を守り、講和の形ばかり考えていた。

だが静かにしていたわけではなかった。

電探を二年早く海に出した。暗号に疑いを持たせた。満洲の雪の下を掘らせた。船団の組み方を変えた。変えたものは、向こうから見える。

見えた分だけこの世界の天秤が傾き、傾いた分だけ、向こうにも一人降りた。

彼はそのとき初めて、この仕組みの筋が分かった気がした。自分がどれだけ大きく動くかは、自分で決められる。向こうがいつ来るかは、その決め方で決まる。

次は、もっとうまくやれる。

そう考えている自分に気づいて、彼は少し笑った。

五つの世界のうち、彼が笑ったのは、たぶんこの夜が最初だった。


一九四四年の春に、戦争は終わった。

勝ったのではない。終わったのだ。

南方の資源地帯は保たれ、船団はまだ通り、艦隊はまだ動いていた。だがそれ以上のものはどこにも無かった。合衆国の工廠は彼の記憶より速く艦を吐き出し、その曲線とこの国の船腹の曲線が交わる日を、森下は毎月、赤い鉛筆で更新していた。

交わる四か月前に、講和の卓が立った。

失ったものは多かった。取ったものはほとんど返した。それでも船は港にあり、人は帰ってきた。

調印の日、橋口が彼に言った。

「顧問。あなたは我々を勝たせなかった」

「はい」

「勝たせなかったことに、礼を申し上げる。妙な言い方ですな」

「いえ」

「一つだけ、うかがってよろしいか」

「どうぞ」

「あなたは、次はどこへ行かれる」

彼は答えられなかった。その問いを、自分にしたことがなかった。


一九四五年の夏に、それは来た。

戦争は終わっていた。この国はもう戦っていなかった。それでも来た。遠い環礁で雲が立ち上がり、彼が知っている月に、彼が知っている場所で、彼が知っているものが完成した。

彼が動かしたものはたくさんあった。真珠湾が撃たれず、電探が二年早く海に出て、満洲の雪の下に櫓が立ち、船団が沈まず、講和が一年半早く成った。

だが、あの夏だけは一日も動かなかった。

二つの世界で、二回。同じ月に、同じ場所で。

彼はその意味を考えはじめた。考えはじめて、途中でやめた。続きを考えるのが怖かった。


十一

その秋、講和の祝いというほどのものは無かった。かわりに、官邸で小さな会があった。

会が終わって、執務室へ戻る廊下で、右のポケットが鳴った。

彼は立ち止まらなかった。歩きながら電話を出した。二度目である。

ATLAS この世界での作戦は、完了した。 あなたの決断により、この世界は変わった。次の世界へ持っていきたいモノを選べ。

完了、と書いてあった。

勝っていない。講和で終えただけだ。それでも完了と書いてあった。誰が採点しているのか、と彼は思った。思ってから、その問いを前にも一度した気がした。

アプリを開いた。二行が新しく黒くなっていた。

 開戦外交団        解禁  研究ヘッドスタート    解禁  ……  提督の記録室   クリア回数   二   クリア国数   二  ――――――――――――――――  次の舞台   現代艦隊        条件を満たしておりません   この世界に留まる    条件を満たしておりません

彼は一つ目の説明を読んだ。

 主要国との初期の関係が、開戦の時点で良くなっています。

講和で終わらせたから、これが出たのか。

彼はそのことに気づいて、廊下の途中でしばらく立っていた。

黒くなる行は、勝てば出るのではない。どう終わらせたかで、出るものが変わる。

線の下の二行は、灰色のままだった。留まれない。ここでも。

彼は画面を閉じた。

閉じたあとで、足元が明るくなった。

「またか」と、彼は声に出して言った。

匂いが変わった。煙草の脂ではない。焼けた土と、桐油と、川の匂い。足の裏に、板張りの床のたわみがあった。

蒸し暑かった。窓の外は霧だった。

長い卓の周りで、痩せた男たちが立ち上がっていた。軍服は色が褪せ、肩章のいくつかは繕ってあった。

最年長の男が、震える声で言った。

「天命」

そしてその瞬間、部屋が割れた。

天が命じたのは分かった。では、誰に命じたのか。

次の世界は、中国だった。