一
帰り道には、坂が一つある。
彼はリュックを背負い、自分の電話を見ながらそこを登っていた。リュックの中は仕事のノートパソコンと財布。電話にもパソコンにも同じものを入れてあって、どちらからでも仕事の続きができるようにしてある。ズボンの右のポケットには会社から渡されたもう一台。私物と仕事の電話は分けろというのが、その会社の決まりだった。
坂の途中で街灯が明るくなった気がして、違う、と思った。明るくなったのは自分だった。手を見ると光っている。握った電話の輪郭が、手のひらの内側から透けて見えた。熱くはない。音もしない。ただ、足の裏から坂の傾きが消えていた。
それから、匂いが変わった。
二
絨毯の匂い。煮出した珈琲。葉巻。椅子が倒れ、書類が舞い、誰かが息を吸って、誰かは吸えなかった。
「換気しろ。窓を開けろ。ドイツの幻覚剤だ」
若い将校の声だった。その男は窓へ行かなかった。行けなかったのだろう。隣では白髪の男が床に膝をつき、両手を組んで祈りはじめている。彼のほうは立っていた。光は足元から順に引いていくところで、手のひらから明るさが抜けると、電話はただの電話に戻った。
ここは、どこだ。
そのとき右のポケットが鳴った。この部屋の誰も聞いたことのない短い電子音に、いっせいに視線が動く。光る人影から、その人影のズボンへ。
彼はつい電話を出した。理由はない。二十年そうしてきたのだ。会議中でも葬式でも、人は鳴った電話を見る。合衆国の閣議室のまん中で、天から降りてきたばかりの何者かが、手のひらの板をのぞき込んだ。
通知は、見覚えのないアプリからだった。
ATLAS あなたの決断により世界は変わる。持っていきたいモノを選べ。あとは好きにしたまえ。
アプリを開いた。
一覧が出た。
精鋭戦艦戦隊 条件を満たしておりません 最強機動艦隊 条件を満たしておりません 精鋭航空隊 条件を満たしておりません 歴戦の陸軍 条件を満たしておりません 武勲艦継承 条件を満たしておりません 戦時経済 条件を満たしておりません 研究ヘッドスタート 条件を満たしておりません 技術継承 条件を満たしておりません 産業動員 条件を満たしておりません 研究加速 条件を満たしておりません 全域偵察網 条件を満たしておりません 開戦外交団 条件を満たしておりません 鉄人モード 条件を満たしておりません 地獄+ 条件を満たしておりません 弱小国補正 条件を満たしておりません 年代戦役記録 条件を満たしておりません 戦勝記章 解禁済 エンディング画廊 解禁済 提督の記録室 解禁済 旗艦称号 条件を満たしておりません ―――――――――――――――― 次の舞台 現代艦隊 条件を満たしておりません
二十行が並んでいて、線の下にもう一行あった。二十行のうち十七行は灰色で、三行だけが黒い。黒い三行はどれも記録のためのものらしかった。彼はいちばん下の一つに触れた。
提督の記録室 クリア回数 〇 クリア国数 〇 最高難易度 ―
零。
彼はその数字を見ていた。零があるということは、一があるということだ。一分ほど、そうしていた。そのあいだ十一人の男たちは、見えないものを触っている男を黙って見守っていた。笑う者はいない。笑えるだけのことを、誰も分かっていなかった。
彼は電話をポケットに戻し、顔を上げて、最初の言葉を話した。
「ここは、どこですか」
三
長い沈黙があった。答えたのは跪いていた白髪の男で、膝をついたまま見上げて、絞り出すように言った。
「ワシントンです。閣議室です」
「今日は、何日ですか」
「十一月、二十日です」
「何年の」
男の喉が上下した。
「一九四一年です」
彼は目を閉じた。一九四一年十一月二十日。十八日後の朝、この国の太平洋艦隊が港の中で焼かれる。知らない大人のほうが少ない日付だ。
過去に来た、と思った。落ち着け、と自分に言った。この国がこの先四年で何をするかを、自分はほとんど全部知っている。
それから、もう一つのことに気づいた。なぜ、通じている。白髪の男は英語で話し、自分も英語で答えた。答えたときには気づかなかったが、気づいてみるとそれは自分の知っている英語ではなかった。母語のように口から出てきていた。彼はポケットの電話に手を当てた。理由はない。当てただけだ。答えはどこからも来なかった。
「大統領は」
「別室でお待ちです。すぐに」
「お名前を、うかがっても」
白髪の男は、質問の意味が分からないという顔をした。それでも答えた。
「レランド・G・ホイットフィールド大統領です」
彼は動かなかった。知らない名前だった。
「あなたのお名前は」
「ディーン・マーサーです。大統領補佐官です」
知らない。
「そちらの方は」
「参謀総長のラッセル・ヴォーン大将。海軍作戦部長のカーティス・マドックス大将です」
知らない。知らない。一人も知らない。
一九四一年の閣僚の名前を、そらで言えるほど覚えているわけではない。だが大統領の名前は知っている。世界中の誰でも知っている名前だ。それが、ここには無い。
背中に冷たいものが走った。ここは、過去ではない。似ている。恐ろしく似ている。日付も、部屋も、机の上の二枚の海図も、これから起きることも、たぶんほとんど同じだ。だが同じではない。自分が知っていることは、もう当てにならないかもしれない。
彼はそれを誰にも言わなかった。かわりに、こう言った。
「十八日後の朝、日本の機動部隊が真珠湾を攻撃します」
四
信じさせるのに一分もかからなかった。あとになって、彼はそのことをよく考えるようになる。
証明はいらなかった。未来を当てて見せる必要も、奇跡をやって見せる必要もなかった。十一人が同時に光の降りるのを見た。それで足りた。人は用心深いものだが、目の前で見てしまった者は違う。この部屋の外にいる人間はこれから四年、彼を疑い続ける。だがこの部屋にいた十一人は、その日のうちに彼へほとんど全部を任せた。跪いた補佐官は「しるしだ」と言った。情報士官のアシュビー少佐だけは最後まで幻覚剤の話をしたが、その彼も翌日には彼の指示で北太平洋の哨戒計画を書き直していた。
信じるかどうかは、もう問題ではなかった。任された権限で、十八日のあいだに何を変えるか。それだけだった。
五
三つの問いが出された。
陸。参謀総長のヴォーンが太平洋の地図を開いた。
「戦争は今週にも始まる。だが最初の一撃はどこに来る。フィリピンに十分な増援は間に合わん。守るのか、時間を稼ぐのか、それとも別の急所に備えるのか」
「三つとも来ます」
「三つとも」
「ハワイ、フィリピン、マレー。同じ朝です」
ヴォーンは鉛筆を置いた。
「フィリピンには何を送れる」
「船は間に合いません。ですが飛行機は、地上で焼かれさえしなければ残ります」
「どういう意味だ」
「あの島では、攻撃の知らせが届いたあとで、飛行機が滑走路に並んだまま焼かれます。知らせは届くのに間に合わない。届いてから飛ぶまでが遅すぎるのです」
彼はそれから四十分、退避のことと分散のことと、燃料の置き場所と整備班の宿舎の位置について話した。ヴォーンは全部書き取った。
海。海軍作戦部長のマドックスが真珠湾の配置図を出した。
「艦隊は日本への抑止のためにここに集めてある。本当に抑止になっているのか。それとも、並べた的か」
彼は、その問いの正しさに打たれた。
「的です」
「では出すか」
「いいえ」
部屋がざわついた。
「残します。戦艦は港に残します」
「攻撃を知っていて、残すと」
「はい」
「理由を」
彼は息を吸った。ここが十八日でいちばん難しいところだった。
「艦隊が港から消えていたら、向こうは攻撃をやめます。やめて次の機会を待つ。次がいつ来るか、私は知りません。私が知っているのは、十二月八日の朝だけです」
マドックスの顔から色が引いた。
「並べておくのか。分かっていて」
「並べておきます。ただし、三つだけ変えます」
彼は指を三本立てた。
「一つ。空母は、その朝、港にいてはいけません。外に出してください。北東へ。理由はあとで言います。二つ。防空と警戒を、今日から戦時のものにしてください。弾薬箱の鍵を開けておく。高射砲に人を貼りつけておく。飛行場の機体を集めて置かない。魚雷防材を張る。これだけで、失うものの半分が変わります。三つ。ドックと燃料タンクと修理施設に人を置いてください。向こうはそこを撃ちません。撃たずに帰ります。撃たれた場合に備えるのではなく、撃たれなかった翌日から全力で使えるように、準備しておいてください」
「向こうが撃たないと言い切れるのか」
「元の世界では、撃ちませんでした」
彼はその一言を、はっきり口に出した。
「この世界でもそうだとは限りません。ですが、賭けます」
国家。大統領補佐官のマーサーが声を落とした。
「世論はまだ参戦に反対だ。開戦が避けられないなら、最初の一発は向こうに撃たせねばならん。待つ以外に、我々にできることはあるか」
これがいちばん重い問いだった。先に撃てば正統性を失う。待てば人が死ぬ。彼にはこの矛盾が解けなかった。八十年後の歴史家にも解けなかった。だから彼は解かないことにした。
「最初の一発は、向こうに撃たせます」
マーサーが目を伏せた。
「ですが」
彼は続けた。
「二発目は、撃たせません」
六
決断はその日のうちに全部下され、そして取り消せなかった。この国の行政は決めた瞬間に電報になる。命令は太平洋を渡り、届いた先で人が動きはじめる。取り消すには、取り消したという事実そのものがまた電報になる。
十八日が残った。その十八日は考えるための時間ではなかった。彼にはもう決めることがない。決め終わっていた。十八日は、結果を見る時間だった。毎朝、目を覚ますたびに日を数えた。十七日。十六日。十五日。
十一月二十六日、この国は日本に覚書を送った。中国と仏印からの撤退を求める内容で、彼はその草案を送られる前日に見せられた。止めることはできた。それだけの権限はもう与えられていた。
止めなかった。
止めれば、十八日の計画が全部崩れる。この紙が最後通牒として受け取られ、向こうの機動部隊が予定どおりに動き、予定どおりの朝に来ること。それが彼の仕掛けた罠の前提だった。
その夜、彼は自分の部屋で、初めてノートパソコンを開いた。
電源は入った。画面も、いつもどおりに立ち上がった。
そこにAIアプリがあった。仕事で毎日使っていたものが、そのまま入っていた。電話のほうにも同じものが入っている。
会社の電話に、あり得ないアンテナが一本立っていた。自分の電話は圏外のままだ。会社の電話につなぐと、アプリが動いた。
理屈は何もわからなかった。ただ、届いた。
最初の夜、彼が訊いたのは近接信管のことだった。
答えは返ってきた。長い文章と、簡単な図。真空管でやる場合の要点。砲弾の加速に耐える作り。電池をどう起こすか。この時代でも作れる、という結論までついていた。
彼は続けて訊いた。冶金のこと、生産管理のこと、抗生物質の作り方。どれも答えた。丁寧で、根拠を添えて、わからないことはわからないと言った。
それから、こう訊いた。
十二月八日、真珠湾を待ち伏せたらどうなる
それはわかりません。わたしが知っているのは、あなたが来なかった世界の出来事までです。
彼は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
同じ線の先には、向こうの世界そのものもあった。
そちらは重かった。文字だけ。写真は数分かかる。数時間、ときには数日、何も返ってこないこともある。
同じことを、人に向けて訊いてみた。
返事は翌々日に来た。
そういう史実はない。真珠湾は八十年前に終わっている。奇襲は成功したとされる
彼はその文面を長いあいだ見ていた。
向こうの世界の戦史は、一頁も変わっていない。彼が何をしても変わらない。そして向こうは、彼が何をしたかを知らない。
向こうも、向こうの史実しか知らないのだ。
手元のものも同じだった。積み上げてきたことは全部答えられる。この先どうなるかは、どちらも知らない。
技術は訊ける。だが明日のことは、誰も知らない。
彼は電話を置き、それからアプリを開いた。
三つの層があった。確定した史実。趨勢。自分の選択の結果。
三つ目は、空白だった。
理由はその夜のうちに腑に落ちた。自分が知っているのは、自分が来なかった世界の歴史だけだ。手を出した瞬間から先は、誰も知らない。この電話も、向こうの世界も知らない。
画面の上のほうに、最初の通知が残っていた。
あなたの決断により世界は変わる。持っていきたいモノを選べ。あとは好きにしたまえ。
彼はそれを二度読んだ。
誰が言っているんだ。
持っていきたいモノを選べ。選べるものは一つも無かった。あとは好きにしたまえ。それは、好きにさせている側の言い方だった。
彼はそこで考えるのをやめた。あと十日、それを抱えて眠らなければならなかった。
七
十二月八日。
その朝、彼は司令部の作戦室にいた。地図の前に七時間立っていた。
七時五十五分、最初の報が入った。
来た。
それから二時間、彼は何もしなかった。することが何も無かった。
港では、十八日前に彼が言ったことがそのとおりに起きていた。戦艦は港にいて、撃たれた。人が死んだ。彼が並べておけと言った船の上で、人が死んだ。
だが高射砲には人が貼りついていた。弾薬箱の鍵は開いていた。飛行場の機体は散らしてあった。魚雷防材が張ってあった。火は、消えた。
そして、空母はそこにいなかった。
十時すぎ、第二の報が入った。哨戒機が北北西の海面に航跡を見つけた。
北から来ることを、彼は知っていた。北太平洋の、船の通らない航路を通ってくることを、八十年後の子供でも知っている。だがそれを「知っている」とは説明できない。だから彼は十八日前に、哨戒の扇を北へ広げるという、ただそれだけの指示を出しておいた。
十一時、マドックスが彼を見た。
「顧問。二発目です」
「はい」
「撃たせないとおっしゃいましたな」
「言いました」
北東の海に、三隻の空母がいた。彼が十八日前に、理由を言わずに置かせた場所だ。第一任務部隊。司令官はランドール少将。航空を信じる、と海軍の中で言われていた男である。
その日の午後から翌日にかけて、太平洋の北で何が起きたかは、この国の海軍史の最初の一章になった。彼はその戦いの指揮をしていない。命令はマドックスが出し、ランドールが動いた。彼がしたのは、十八日前に三つのことを言っただけだ。
夕方までに、日本の機動部隊は来たときの姿では帰れなくなっていた。
その夜、大統領のホイットフィールドが彼を呼んだ。
「肩書きを決めねばならん」
大統領は疲れた顔で笑った。
「特別顧問としよう。まさか公文書に神とは書けん」
八
翌週、彼はもう一つの賭けに出た。
南シナ海を南下している輸送船団があった。マレーへ向かう部隊である。元の世界では、この船団は誰にも邪魔されずに揚陸を終える。
「叩けますか」
「宣戦はもう出た。撃てる」ヴォーンが言った。「だが遠い。届く機体が足りん」
「フィリピンの機体は、何機残っています」
ヴォーンが顔を上げた。焼かれなかった機体が、そこにあった。十八日前の四十分が、そこで返ってきた。
届いたのは船団の半分にも満たない。それでも揚陸は遅れ、遅れた分だけ上がった部隊は補給を待つことになり、待っているあいだに雨季が来た。歴史が、彼の指の分だけ形を変えはじめていた。
九
そこからの三年は、工場の話である。彼は前線に一度も出なかった。したのは、訊いて、かみ砕いて、渡すことだけだった。
近接信管は一九四二年の秋に艦に載った。元の世界より一年近く早い。対空砲の当たる率が変わり、変わったことに向こうが気づいて戦い方を変えるまでに、半年かかった。
艦の中にレーダーと無線と海図を一つの部屋に集めるという考え方は、彼が図を描いて渡した。これは技術ではなく机の並べ方です、と言った。机の並べ方が、夜戦の勝ち負けを変えた。
対潜には、狩る側の編成を渡した。護衛は守るために出すのではなく、沈めるために出すものだ。その考え方を、彼は八十年後の教科書から丸ごと持ってきた。
生産には統計の使い方を渡した。抜き取り検査と、工程の管理図。戦争と関係なさそうに見えますが、同じ工場から出る同じ砲弾が同じように飛ぶ、ということです。そう説明した。四か月後、不発の率が半分になった。
そして薬を渡した。これは軍の誰も評価しなかったが、彼は四年のうちでいちばん良かったことだと思っている。
そのあいだじゅう、アプリの二つ目の層、趨勢の帯は広がり続けていた。彼が何かをするたびに帯の上と下が離れていく。日本の生産力の見込みも、自国の損害の見込みも、前は細い線だったものが、今は幅の広い、まん中の空いた帯になっている。手を出すほど、先が見えなくなる。
十
一九四三年の夏、アシュビーが、大佐になって彼のところへ来た。あの、幻覚剤だと叫んだ情報士官である。
「顧問。妙なものが上がってきました」
鹵獲した機体の部品の写真だった。
「あちらの機体から出たものです。この時期のあの国には、作れないはずのものです」
彼は写真を見た。それからもう一枚、紙を見せられた。解読の断片だった。
「それと、私の思い違いかもしれませんが」
断片の中に、意味の取れない言葉が一つ混じっていた。彼はその言葉を知っていた。この時代には、まだ無い言葉だった。
「アシュビー大佐」
「はい」
「向こうの通信は、この半年で、失敗をしなくなっていませんか」
アシュビーの顔が変わった。
「なぜそれを」
彼は答えなかった。
その夜、彼は自分の部屋で長いあいだ動かなかった。静かに戦えば遅れる。派手に戦えば早まる。自分は派手に戦った。近接信管を一年早く出し、機動部隊を待ち伏せ、船団を叩き、歴史の形を変えた。その跡を、向こうも見ていた。呼んだのは自分だ。
そこで初めて、彼はこの仕組みの筋が見えた気がした。自分がどれだけ大きく動くかは自分で決められる。そして向こうがいつ来るかは、その決め方で決まる。呪いではない。目盛りのついた道具だ。今回は目盛りを読まずに使った。次があるなら——そう考えている自分に気づいて、彼は少し笑った。次があるなら、とは。
十一
一九四四年の秋に、戦争は終わった。元の世界より一年近く早かった。
終わり方は、彼が思っていたものとは違った。大きな決戦があったわけではない。向こうの油が尽き、船が尽き、飛行機を飛ばす人が尽きた。彼が十八日で作った差が、三年かけてそういう差になった。それだけだった。
条件は、元の世界より少し緩かった。彼はその交渉には関わらなかった。
そして一九四五年の夏に、それは完成した。
戦争は終わっていた。使う相手はもういなかった。それでも完成した。彼が知っている月に、彼が知っている場所で、彼が知っているものが。
彼はその知らせを新聞で読んだ。
動かなかった。
彼が動かしたものはたくさんあった。真珠湾で空母が助かり、機動部隊が北の海で沈められ、フィリピンの機体が焼かれず、信管が一年早く海に出て、戦争が一年早く終わった。歴史は彼の指の分だけ、たしかに形を変えた。
だが、あの夏だけは一日も動かなかった。
その意味を、彼はまだ言葉にできなかった。
十二
一九四五年の秋、遅れて開かれた戦勝の祝いは三日続いた。
三日目の夜、彼は会場を出た。四年住んだ街である。誰も彼の本名を知らなかったし、彼も四年のあいだ一度も名乗らなかった。祝いのあいだに溜まった書類を片づけに庁舎へ戻るつもりだった。特別顧問という肩書きには、驚くほど事務仕事がついてくる。
庁舎の廊下を歩いているとき、右のポケットが鳴った。四年ぶりの、あの音だった。彼は立ち止まって電話を出した。
ATLAS この世界での作戦は、完了した。 あなたの決断により、この世界は変わった。次の世界へ持っていきたいモノを選べ。
彼はその文を読んだ。次の、世界。
最初の通知と同じ文で、時制だけが過去になっている。そして「あとは好きにしたまえ」が無かった。もう好きにしたあとだからだ、と彼は思った。思ってから、自分の考えの冷たさに少し驚いた。
アプリを開いた。二十行のうち、三行が新しく黒くなっていた。
精鋭戦艦戦隊 解禁 戦時経済 解禁 年代戦役記録 解禁 …… 提督の記録室 クリア回数 一 クリア国数 一 ―――――――――――――――― 次の舞台 現代艦隊 条件を満たしておりません この世界に留まる 条件を満たしておりません
零が、一になっていた。
彼は精鋭戦艦戦隊の行を開いた。次に始めるとき、この編成を持ち込める、と書いてある。次に始めるとき。このアプリは、次があることを最初から知っていた。
彼は線の下を見た。二行あった。
この世界に留まる。条件を満たしておりません。
その行に指を置いた。何も起きなかった。留まれない、ということか。四年住んだ街の廊下で、彼はしばらく立っていた。
それから画面を閉じた。何も選ばなかった。選べるものは選ばなくても持っていけると書いてある。留まること以外は。
閉じたあとで、足元が明るくなった。
「あ」と彼は言った。
四年ぶりの、同じ明るさだった。
匂いが変わった。珈琲でも葉巻でもない。煙草の脂と、湿った紙と、油紙。足の裏に、冷たい石の感触があった。
椅子が倒れる音。書類が舞う音。誰かが息を吸う音。
そして、右のポケットが鳴った。
彼はゆっくりと周りを見た。緑の羅紗の会議卓。灰皿が七つ。壁の海図には、南シナ海からマレー半島にかけて赤い鉛筆の線が引いてある。卓の上の書類の日付は、昭和十六年十一月二十日。十四人が彼を見ていた。そのうちの一人、年老いた提督が、深く頭を垂れた。
「軍神の御来臨と拝察いたします」
次の世界は、日本だった。
